信じる前に確かめよ A SURPRISE ADVICE OF THE BUDDHA
ただ信じるのではなく、自分自身で確かめなさい」
お釈迦さまはいつでもこのようにおっしゃいました。
「比丘たちよ、他人の心を読むことはできないがものごとを探究する智慧のある比丘は、『ブッダが正自覚者であるか否か』についても、よく吟味するべきである」
これは、歴史上、他のどの宗教にも見つけることのできない、仏教だけの特色、『自ら確かめ、判断することの自由』についての話しです。
あるとき、お釈迦さまは、インドのケサプッテイ(Kesaputti)という小さな街を訪れました。この町には、カーラマ族と呼ばれる人々が住んでいました。お釈迦さまがこの町に入られたことを聞いたカーラマ族の人々は、お釈迦さまのもとに赴き、このように告げました。
「尊師よ、ある沙門やバラモンたちがいて、この町にやってきます。そして彼らはただ『自分たちの教えこそが正しい』と強く主張し、他の教えは、罵り、けなすのです。また他の沙門やバラモンたちがいて、彼らもまた自分たちだけの教えだけを強く主張し、他の教えは、罵り、けなすのです。尊師よ、私たちには『いったい誰が真実を語り、誰が偽りを語っているのか?』という疑いが起こり、混乱するのです」と。
そこでお釈迦さまはこのように教えられました。
「カーラマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことです。不確かで暖味なところに疑いは起こるものです。これから私が話すことを、よく注意して聞きなさい。
ただ聞いたこと(神の言葉など)を判断の基準にしない
伝承、伝統、伝説を判断の基準にしない
見当や当てずっぽうなことを判断の基準にしない
聖典や古典を判断の基準にしない
理屈を判断の基準にしない
推論、推測を判断の基準にしない
うわべだけの考えを判断の基準にしない
自分の見解と同じということを判断の基準にしない
可能性を判断の基準にしない
語る人の偉大さ(師)を判断の基準にしない
カーラマ族の人々よ、もしあなたがたが何かを理解するときに『このことは不善であり、悪い行為で、賢者に非難されることである』と自ら知るならば、それらは捨て去ることです。また『このことは善であり、善い行為で、賢者から非難されないことである』と自ら知るならば、それらは受け入れ従うことです」と。
このように目の覚めるようなお釈迦さまの教えを知ることで、改めて仏教について考えてみたり、これまで自分が信じてきた宗教と比べたりするかもしれません。でも誤解しないでください。私はただ、お釈迦さまの教えを、それに関心のある方々と分かち合いたいだけで決してあなたを「信じさせよう」とは思っていませんから。
お釈迦さまは、他の宗教の人々を仏教へ改宗させようとして教えを説かれたのではないことに注目してください。そしてお釈迦さまの教えは、過去、現在、未来においても、他の宗教に害を与えることは何ひとつありません。お釈迦さまは、信仰や崇拝、祈りなどの宗教には、まったく興味ありませんでしたから。
仏教で、もし「祈り」という言葉を使うならば、それは悪い行為を引き起こす貪瞋痴を減らしていくことなんですね。多くの人々が私のところに来てこのように言います。「仏教はとても単純明瞭ですばらしいと思います。でも、実践することはむずかしい」と。それで私はこのように答えます。「自分自身を害さずにただありのままの現象、たとえば貪り、怒り、無知などを観察してください。きっと燃えていた火が消えたように、心が静まるでしょう」と。
お釈迦さまは、カーラマ族の人々に、つづけて話されました。
「カーラマ族の人々よ、怒りというものは、善か、悪か、幸福をもたらすものか、心を乱すものか、平和的なものか、有害なものか?」
「尊師よ、怒りは実に悪いもので、心を乱し、有害なものです」
「カーラマ族の人々よ、怒りや憎しみをもつ人は、他の生命をたやすく害したり、殺してしまう。あなたがたはこの事実をどう考えるか? 怒りを心に永く留めておきたいのか、捨て去りたいのか?」
「尊師よ、怒りが消え、心が落ちつくことを望みます」
前回は、お釈迦さまがカーラマ族の人々に、ものごとを安易に信じるのではなく、自ら確かめ判断するように「10の判断基準」を教えられたのでした。
お釈迦さまは、カーラマ族の人々に、自分の教えを押しつけたり、信じさせようとすることはありませんでした。その替わりに、このように言われました。
「あなたがたが『このことは善であり、有益である』と自ら知るならば、それらを受け入れ従うことです」と。
カーラマ族の人々は、「怒り」が本当に悪いもので、有害であることを自ら知り、同様に「貪り」や「無知」も悪いもので、有害であることを自ら知りました。自分の気に入らない人々や物事に、腹を立てて怒りをあらわせば、最初に傷つき害されるのは他ならない、自分自身なのです。気づきや忍耐に欠け、怒りがいかに有害であるかを知らなければ、こころは汚れ、混乱してしまいます。このような苦しみをもたらす怒りは鎮められるべきではないでしょうか。もし怒りが鎮められたならば、こころは善良で、正しく、清らかになります。もういかなる宗教や儀式、儀礼にも頼る必要がなくなるでしょう。
お釈迦さまはよく言われました。「怒り、貪り、無知は『気づき』の成長によって鎮められる」と。もしあなたが『気づき』(ヴィパッサナー冥想)を実践するならば、自らの知識、智慧、理解 (Paññâ )を通して、これらのことを経験することができるのです。
皆さまの中には、お釈迦さまのこの智慧のある教えを聞いただけで、自ら納得された方もいらっしゃるのではないでしょうか。そしてこのように考えるかもしれません。「怒りは悪く、有害なものだ。それは誰よりも先に自分自身を傷つける。そして多かれ少なかれ、周りの人々のこころを混乱させてしまう。だから怒りから離れるべきです」などと。
それから、お釈迦さまは「怒り」を取り除くために、「慈悲の冥想」を教えられました。もし怒りが慈しみに替わるなら、こころは純粋で、穏やかで、清らかになることは明らかです。ですから「慈悲の利点」と「怒りの危険性」を賢く知るべきです。また何をするときにも気づいていることが大切です。少しづつ、気づきや忍耐、慈悲などの、こころの善い性質に慣れ親しみ、経験を重ねることで、それらの利点を明確に理解するでしょう。
お釈迦さまは、カーラマ族の人々にこのように聞きました。
「カーラマ族の人々よ、もし来世に、天界や地獄、楽の次元や苦の次元、善業の果報や悪業の果報があるとすれば、こころに慈しみを育てた人は、死後天界に行くか、地獄に行くか、楽の次元に行くか、苦の次元に行くか、善い果報を受けるか、悪い果報を受けるか、あなたがたはどのように思いますか?」
カーラマ族の人々は全員で答えました。「まさに今生きているこの世で、慈しみのこころを育てた善い人は、死後、天界や楽の次元に行き、善い果報を受けることができます」と。このように、カーラマ族の人々は、各々の智慧で「今どのように生きるべきか」ということを理解したのでした。お釈迦さまは、人々が自ら判断できるように、彼らの知識や智慧に、少し刺激を与えただけなのです。
この説法のあとすぐに、すべてのカーラマ族の人々は、この智慧のあるお釈迦さまの教えを受け入れ、帰依しました。
この話は、増支部経典・カーラマスッタで述べられているものです。
生きとし生けるものが涅槃に至るための正しい道を見いだすことができますように